春の夜
真夜中、不意に風の鳴る音にお前が身を起こした。
しばらく、窓の外をうかがって、オレに手を差し伸べる。
「行こう。」というお前の声は、楽しげにはずんでいて、誘われるようにベランダから部屋を出た。
街灯も消えた真夜中、春の夜の風は花冷えのせいか、強くて少し冷たかったが、繋いだ手が暖かくて、そこからその温もりが体中に伝わっていくようで、そんなことはまるで気にならなかった。
お前といる時はいつもそうだ。なにもかも、夢の中のよう。
朧な月が道を照らしている。びゅうと吹く強い風に額に手をかざした。
オレの手を引きながら、先をいく背中を追う。遅れないように。
淡いオレンジに照らす月明かりに、風にあおられた金の髪がきらきらと光をこぼした。
時折振り返っては笑うその顔がまぶしくて目を眇める。
ゆっくりと歩く細い道に人影も気配もなく、どこまでも二人だけだ。
この世界にただふたりだけ、取り残されたように。
「あと少しだから」という声が柔らかく耳に届く。
「ああ」と答えながら、このままたどり着くことなど無くてもいいとぼんやりと思った。
何処までも、このまま行けたならいいと思った。
風がざわざわと木々を揺らしている。
何処に行こうとしているのかも解らないままただ、足を進めているうちに、いつの間にか里はずれの森の中に居て、
見上げた空は入り組んだ枝にまるでパズルのように細切れに見えていた。
灯のない森の闇は深く、その隙間を縫うように差し込む月光が余計にそれを暗くしていく。
足元を危うくするほどの闇の中で、やっぱりお前だけが、まるで月光を集めたように柔らかく光っている。
触れた場所からその光がオレにまで流れ込んでくるような気がして、繋いだ手に力をこめると、「どうしたんだよ?」
とお前はまた、振り返って笑った。そうして、お前もオレの手を力強く握り返してくる。その強さが嬉しいのに、湧き
あがった感情は形になりかけるものの、それを明確にする術を見出せないまま、また心の中に押し込まれた。
お前の笑顔が困ったように曇る。そんな顔をさせたいわけじゃない。
けれど、それを伝える言葉が見つからなくて黙った。どうしてもうまく出来ない。
お前にはいつも笑っていて欲しいのだ、けど。ぐっと奥歯を噛み締める。鈍く関節が痛んだ。
きしむ音が聞こえたかのように、ふいにお前の足が止まる。
手を掴んだ手を引かれて、隣に並ぶ。後頭部を包むように乗せられる温かい大きな手。
「そんな顔、するなよ。」あやすように甘く染み込む声。不安を溶かすお前の声。
お前は、いつも、そうだ。
何もかも、見透かしたように、オレをあまやかす。
ふれる温度に息を着いた。目を閉じて、開ける。入り込んでくる光を意識する。
波立った感情がゆっくりとおさまって、穏やかにまたお前に集束していく。
「すまない…」暗い闇の中でも鮮やかな青い目に視線を合わせるとお前はくしゃりと笑って見せた。
「行こう?ほんとにあと少しだからさ。」
細い細い闇の深い道を手を繋いだまま、また、進んだ。月明かりを頼りに。
辿り着く気配も無い行き先を聞いても、お前ははぐらかすばかりで。
けれど、それでよかった。たあいのない言葉が楽しくてしかたがない。
ざわりとまた風が吹いた。まっすぐに顔に吹き付ける強さに目を細め、思わずあいている手を額へかざす。
うっすらと開けた視界の端を掠めたのは、強風に混ざってひらひらと雪のような白いもの。
思わずナルトに目を向けると彼は、うながすように前を指した。
数歩。
突然視界が開ける。
白い、白い桜だった。
暗闇にぼんやりと淡い月明かりを白く照り返す、満開の桜の森。
強い風に白い花びらをひらひらと振りこぼしている。
見上げても、地面さえ淡い色に染めて、視界の全てを覆い尽くすほどのそれ。
あまりに、幻想的な光景に言葉をなくした。
「お前にどうしても見せたかったんだ。たぶん、今日で散っちゃうから。」
空を覆う桜を見上げたままで、ナルトは言った。
「ちょっと、すごいだろ?散りぎわだから余計。」
差し伸べられた手に誘われたように、また、強く風が吹く。
景色を霞ませるほどの花びらが吹雪のように舞った。
風に枝を揺さぶられる音に混じって、さらさらと微かな音がする。
散った花びらもこんな風に音を立てるのだとはじめて知った。
降り積もった花びらを踏んで、小さな広場のようになったこの場所の中心へ、ゆっくりとむかい、そうして、
その樹の根元にどちらからとも無く腰をおろし、ごつごつとした樹皮にもたれるようにして、上を仰いだ。
美しくて儚いものを二人で並んだままぼんやりと眺めた。
当然のように寄り添ってくるお前と同じように体重を預ければ、嬉しげに笑いをこらえる気配がして、背中から腕が廻っ
て抱き寄せられる。暖かい。
風が吹くたびに花が散り、雪のように降り注ぐ。少しづつ花びらを失っていく木々は、紅を濃くしていく。
亀裂のような枝の影。
微かに感じる淡い桜の匂い。
隙間を縫うようにしながら差し込む月光。
仰のいた頬を掠める白い花びら。
肩に感じるお前の体温。
お前と月と桜が放射するほの白い光につつまれたようだと思った。
自分までそういうきれいなものになれるような気がしてその光に無意識に手を伸ばす。
ふわりと手の中に花びらが落ちた。
「このまま……」
「え?」
思わずこぼれた声にお前の目がこちらを向く。その青さにこぼれかけた言葉を飲み込んだ。
そう、このまま時を止めたいわけじゃない。
ゆっくりと正しい言葉を探した。まるで浮かび上がってくるように、それはすぐ見つかった。
「また、来年も見たいな。」
驚いたように見開かれた青い眼に少し笑う。
「来年も見たい…」
ひときわ強い風が吹いて、花びらが舞い上がった。霞んだ視界の向こう側でお前が本当に嬉しそうに笑うのが見えた。
「じゃあ、また一緒に来よう、な!!」
来年も、その後も、ずっと。
風がたてる音に邪魔されながら、それでも真っ直ぐお前の声が耳に届いた。
Fin