ツキノヒカリ
遠くに月が見えた。
青い色に染まった砂漠が、同じ色の空と境目を曖昧にしている。
いつも変わらない風景だ。
何もかも沈んでいくような青い景色。
切り立つ崖の端に座り、我愛羅は何をするわけでもなく、ただ、どこまでも続く砂地に視線を投げた。
月が明るい夜にはここに来る。
監視付きの慣れきった重苦しい空気に満たされた部屋を抜け出すのは、何かに耐え切れなくなるからだ。体の奥から滲み出す衝動。
それでもここに来れば、澱みの無い冷えた空気に感覚が冴え冴えとして、息苦しさが少しだけマシになるような気がした。
風は少し冷たかった。
止まない風の音はやはりいつもと何一つ変わりなく、砂混じりに吹き抜けていく。
頬をかすめて吹き抜ける風に目を眇めて、我愛羅は月に手を翳した。
逆光に影が深く、輪郭を青白く照らすそれが、この場所を現実から切り離す。
冷え始めた手足など気にならなかった。
この場所はとても静かで、風の音に耳を傾けていれば、このまま消えていけるような気さえした。ゆっくりと目を閉じる。眠れるわけではなかったがそれでも、青い空気に少しだけ冷え切った精神が凪いでいた。
ふいに、さらさらと鳴るばかりだった砂交じりの風の音に僅かな異音を感じて、我愛羅はぴくりと耳をそばだてた。待ち望んでいた違和感が我愛羅を現実に引き戻す。砂地に向けて手を翳し、少しだけ意識を集中する。自分の周りを取り巻く砂に、意思が染みとおるように。
まるで、懐いてくるように砂がその手に纏わりつく。
慣れ親しんだ感触は、必要な情報を音も無く伝えた。
10m先にひとり。
そうか、と口の中で呟いて、振り向くことなく気配を探る。
ちりちりと、向けられる巧妙に隠された殺気。
向けられる殺気はそれなりに練られたもの。そこそこの使い手だろうとあたりをつける。
これなら、少しは感じられそうだと我愛羅は声を立てずに笑った。
視線を砂漠にやる。気配を殺し過ぎないように気をつける。
気がついていることがばれたら興ざめだ。
こちらからわかり易く迎えなくても、そう間を置かず距離をつめてくるだろう。
それから、ゆっくり考えればいい。
どうやって、壊すかを。
ざり、と砂を踏みこむ音がした。おそらく普通なら聞き取れないほどの小さな音。
それでも、異質なその音は、わかりやすく我愛羅の鼓膜をふるわせた。
完全に気配を消したつもりでいるのが滑稽だった。
とっくに気付かれていることにも気付かない鈍さが、いっそ哀れみを誘う。
この場所を選んだ瞬間から、とっくにこの手の中に落ちているのに。
軽く砂を蹴る音がして、一瞬で気配が近づく。
我愛羅はすうっと口の端をつりあげた。
銀線が閃くのが視界の端を掠め、意識するよりも先に砂が舞い上がる。
遅い。
キンッという軽い音を立てて、あっさりと銀線は弾き返された。
刺客が驚いたように目を見張る。
死角を突いたはずなのに、と。その一瞬の迷いが小さな、それでも明確な隙を生む。
盾のように我愛羅を取り巻いていた砂は、そのまま風を切り、それを絡め取るようにして使い手を取り巻いた。距離をとるために後ろに飛びながら、とっさに引き絞るように指を動かして、背後から回り、心臓を貫くはずの銀線も、悲鳴のような金属音をさせて絡みついた砂に砕かれた。
青い月明かりに反射して、砕けたそれがきらきらと光る。
ありえない光景に刺客は息をのんだ。
絡みつくように自らを覆おうとする砂に刺客は悲鳴をあげた。ようやく自分が何を相手にしているのかを気付いたのだ。一見どう見てもただの幼い子供にしか見えないそれは。
「バケモノ!!」
耳慣れたそれを聞き、我愛羅は捕えられ、恐怖に顔を引き攣らせる獲物を見た。
「そうだ。」
知らなかったのか?とでもいいたげな感情のこもらないただの事実を告げるだけの声で我愛羅はと捕えたそれに言った。終わりを宣告する、空っぽに光る淡い硝子玉のような目にそれは声を失う。
ぐっと差し出した手を握る。
ぐしゃり、と湿った音を立てて、砂が赤く濡れる。
あまりにそれは簡単だ。
退屈な、ほどに。
わかるのは、たった今奪ったそれよりも、少なくとも自分のほうがこの世界に価値があるのだということ。
価値が無いものに、価値があるものを奪えるはずはないのだから。
小さく笑う。
また、自分は許されたのだ。この世界に存在することを。
自分の中のアレと共に。
まだ、自分には価値がある。存在する、意味が、ある。
我愛羅は、さえざえと、青い青い夜の空を見上げた。
ぽっかりと穴が開いたように白い月が見えた。
この場所を満たす、生臭い錆びた臭い。
緩やかに満ちる安心感と、我愛羅は静かに歩き出した。
ざりざりと飛沫いた残骸を踏みながら、ふと思う。
存在を許すものとは、何なのだろう。
この世界に拒絶された自分を生かすものは何なのだろう。
今夜も壊されたのは自分ではなく。
この世界に赦されているはずの誰かで。
ならば、自分の存在を赦すものとは、いったい何なのだろうと。
父でなく、里でもなく。
他に総べるものが思いつかなくて我愛羅は僅かに逡巡した。
さらり、と入り込みかけた思考を中断させるように砂が頬を撫でる。
「ああ、そうだな。」
そんなものは関係ないのだ。
自分は、生きるために生きるだけ。
自分以外の全てを壊しながら。
それこそが自分の存在を証明するものだから。
世界はそのために自分を生み出したのかもしれない。
いらない誰かを消し去るために。
いつか、自分が要らなくなったなら、誰かが自分を壊すのだろう。
ただ、それだけの、ことなのだ。
頬を、髪を撫でる感触に目を眇めながら、我愛羅はもう一度空を見上げた。
月の光は何もかもを同じに青く照らして、けれども何を与えるわけでもない。
それでも、少しばかり、心が和ぐ。
自分も、アレもヒトも本当は生きてなどいないのかもしれない。
唐突に我愛羅は思った。
解らないなにかの、理解できない思惑によってただ、存在させられているだけなのかもしれない、と。
それ以外に術も無く、全てのものが公平に。まるで月の光のように。
ならば、それが許す限り存在するしかないのだ。
この、場所で。誰もが同じように。所詮、ただ、そこに在るだけ。
いつか無くなるその時まで。
青い青い光に照らされながら、我愛羅は何処までも歩いた。
どこか、満たされたような気持ちで歩いた。
FIN