ふと気がつくと、見晴らしのいい高台に立っていた。見えるのは、どこまでも続く砂地とこうこうと照らし出す大きな月。
「…どこだ…?ここ…」
しんと凍りついたような夜の空気にナルトはわずかに身震いする。
見覚えがあるな、と考えて、ああ、と思い出す。砂の里の入り口の岩壁の上だ。
振り返ればかすかに里の篝火が見える。
それから、岩壁の端にうずくまる小さな影。強すぎる月の光が逆光になってシルエットしか見えない。何故自分がこんな所にいるのか、どうしても思い出せなくて、これは夢なのかもしれないと、ナルトは思う。
声をかけようと、一歩近づく。とたん、ざわりと空気が震えた。
驚いて足を止める。そのときになって、この場所をうっすらと血のにおいが満たしていることに気付いた。
ところどころ、地面に散らばったどす黒い染みにも。
「誰だ」
立ち尽くす気配に反応したように、唐突に声がかけられる。
「え?」
「…お前もオレを殺しにきたのか。」
今夜は多いな…と誰に言うでもなく小さく呟いたその声は、こんな夜中や、血のにおいとも、その物騒な言葉ともまるで不似合いな小さな子供の声だ。なのに、その幼さには似つかわしくないほど、その声は冷たく凍り付いて、うっすらと滲む殺気以外、何の感情も感じさせなかった。
「いや、違うってば…!」
とっさに否定する。その声をよく知っているような気がした。しかし、ありえない想像に何を言えばいいのか混乱するナルトを小さな影は訝しげに振り返る。
無表情の白い顔は、初めて会った頃よりもさらにずっと幼かったけれど、確かに彼の顔で。
「……我愛羅…」
思わず口をついて出た名に、硝子玉のような薄い緑の目にさっと警戒の色が走り、ざわざわと彼の周りの砂が舞い上がる。
(やばっ…!!)
弾丸のような速さで飛んできた無数の砂の飛礫を避けて、大きく後ろに飛びずさり、両手を上にあげて、敵意の無いことを示す。
「オレは敵じゃないってばよ。あー…ちょっと道に迷ったっていうか…思ってたのと違うとこに来ちゃって困ってるっつーか…、とにかく!殺そうとか、そんなんと全然関係ないから!!!大体オレは砂じゃなくて木の葉の忍だし!!」
額あてを指差すと、ぴたりと攻撃が止まる。体制を整え、警戒を解かないまま、こちらの真意を探るように、ひたと睨み付けて彼は重々しく口をひらいた。
「木の葉の忍が、なぜこんな所にいる?」
ナルトはどう話すべきか逡巡する。考えても此処にいる理由が頭からすっぽりと抜け落ちている。そもそも、我愛羅がこんなに小さいこと自体がおかしいのだ。夢としか思えないのに、夢にしてはあまりにもリアルだった。
「オレさ、任務で砂の里に用があって来たんだってば。だけど、途中でちょっとごたごたに巻き込まれてさ、こんなに遅くなっちまったんだってばよ。」
嘘をつくのは気が引けるが、それでも未来から来たとかここは自分の夢の中だとかいうよりはずっとそれらしいだろう。
幼い彼は、しばらく値踏みするようにナルトを眺めていたが、やがて、こちらに敵意が無いことを認めたのだろう、興味を失ったように目をそらした。同時に砂もパタリと地面に落ちる。
「早くここから立ち去れ。ここにいても、碌なことはない。」
つまらなそうに呟いて、彼ははじめに見たときと同じように、音も立てず崖の端に座る。
片ひざを抱え込むように蹲る小さな背中に、出会った頃の彼が透けて見えて。
考えるよりも先に声が出た。
「なあ、そっち行ってもいいか?」
返事を待たずに、すたすたと近づいて、その背中の傍らに座る。近づいた距離に驚いたように小さな我愛羅は顔を上げた。
「なぜだ?」
なぜ、そんなことを言い出したのか、なぜ、こんな近くにやってくるのか、心底理解できないという調子で発せられた短い問いに、ナルトは苦笑する。本当はただ、傍にいたいと思っただけだけれど、そんなことを言ったところで彼は信じることは無いだろう。だから、出来るだけ軽い調子で答えた。
「なんでって、今行ったって、役所はあいてないだろ?そんなに急ぎって訳じゃないからさ、朝になったら行くからそれまで付き合えってばよ」
邪魔はしないからさ、と言ってにかっと笑ってみせると、彼は不可思議なものを見るようにしばらくナルトの顔を眺めた後、僅かの間をおいて言った。
「すきに、すればいい。」
無表情のままどうでもいいことのように。そうして、また遠くへ視線をもどした。
「ん、さんきゅ。」
得られた許可に言った礼には何の反応も戻っては来なかったけれど、気にせず彼と同じように膝を抱いて目線を遠くにやる。
どこまでも続く砂漠と降ってきそうなほどの星空。いつか、彼と見たのと変わらない。
「いい眺めだってばな、ここ。」
返らない返事にそっと、隣をうかがうと、小さな彼は蹲ったまま黙って遠くを見つめている。だからナルトも、ただ言葉も無く、並んだままぼんやりと夜の砂漠を眺めた。
小さく風が鳴っていた。言えることなんてなにもない。
火の国とは違う水分をあまり含まない砂漠の空気はどこまでも冷たく澄んでいて、空の藍を映すみたいに視界の全てがぼんやりと青みがかって見えた。隣の小さな彼の横顔も。
砂漠の空気のように、冷たく青く澄んだ無表情だ。
麻痺しきった心を写し取ったような、無機質な目。
膝を抱いた手に顎を預けるようにして、じっと虚空を眺めるその顔立ちは、歳相応に幼いのに、ほとんど動かない表情は彼を長い年月を経た人ではないもののように見せた。
(こんな場所にずっとお前はいたんだな。)
眠ることも出来ない夜に、苦しさも、悲しさも飽和して知覚できなくなるほど深い闇の中でただ独りきり。ひたすら、自分を守るために害する何もかもを殺し続ける世界。
それ以外何も無い場所。
悲しさを苦しさを、殺意に振替えて、他の感情は何も持たず、傷ついた痛みさえ、感じられなくなっていた彼の心。
知っていたつもりだったけれど、目の当たりにすればあまりにも痛くて、ナルトは堪えるように唇を噛んだ。小さな肩を抱き寄せたくて手を伸ばしかけて、思いとどまる。
ずっと一緒に居られない自分に何が出来るだろう。
出会うよりもずっと前の。もう触れることも出来ない過去だ。
手を伸ばせば届く距離で、手を伸ばしても届くことの無い想い。
だから、言葉も無いまま、抱きなおした膝を抱えた手を握り締めた。
僅かな、けれど絶対的な距離を挟んで、並んで、ただじっと夜明けを待つ。
時が空気を刻んでいくのをずっと眺めた。
近くて遠い小さな彼と同じ景色を。
青白い月が大きく傾いて、夜の色の砂漠に埋もれていくから。
もう、夜明けが近い。
やがて、零れ出すように地平線が淡く白んで、ゆっくりと夜が明け始めた。ゆっくりと昇りだした太陽が、冴え冴えと満たしていた暗い青を駆逐し、闇を光へと塗り替えていく。
それに反応するように、浮上していくように現実感がとおのいて、頭の中が霞んでいく。
ああ、時間が来たんだと、ぼんやりする頭の中でナルトは思った。
見れば、手も足も身体も、頭の中と同じように滲むようにかすれ始めていた。
変わった気配に振り向いた彼は、たぶん、うっすらと消え始めた自分に気がついて、驚いたように僅かに目を見開く。
それがどうしてか、うれしくて、かなしくて、ナルトはほんの少しだけ笑った。
今の自分は、この彼を置いていくしかないけれど、自分達は必ず出会うのだ。
この場所からほんの少しだけ未来に。
自分達は出会って、一人じゃないことを知る。
せめて、それを伝えたくて、ナルトは急いで、呼びかけた。
「なあ、」
声に反応したように、ぴくりと震えた肩に、許されたような気がして、消えかけている右手で、そっと、小さな彼の頭に触れる。変わらない、少し猫毛気味の柔らかい髪。子供特有の高めの体温。ほとんど動かない目で自分を見つめる表情に、引き絞られるみたいに胸が痛むけど。ナルトはその目を覗き込むようにして笑った。
意識をかき集めるようにして、言葉を紡ぐ。
「お前は一人なんかじゃねえんだよ…。」
今はわからなくても、それを知る日が必ず来るからと、薄らいでいく意識の中で、ちゃんと声になって届いていたらいいと思った。
出会える日をずっと待ってる。
最後に目に映ったのは、まっすぐに自分を見つめる小さな彼のどこまでも透明な緑色の光彩と、白く世界を染めていく朝日。
それは、とてもきれいで、きれいで。
泣きたくてたまらなくなった。
ぼんやりと目を開けると、目に映るのはうす暗い夜明け前の自分の部屋の天井で。
視線をさまよわせて探せば、すぐ隣に彼の姿を見つけた。
同じベッドの上で、小さなスタンドを一つつけて、本をめくっている。
「があら…」
小さな声で呼べば、我愛羅は顔をあげて、ナルトに目線を向けた。
「なんだ、起きたのか?」
まだ早いぞ、と小さく笑う。読みかけの本を伏せて、寝転がっている自分の頭の横に手をついて、覗き込むみたいにしてくる彼の緑の目の中には、もう、あの彼のような無機質な色は無くて。変わりに穏やかで柔らかい光がある。
ちゃんと、会えた。
その温度をもっと、ちゃんと確かめたくて、ナルトは手を伸ばして、胸の上に乗せるみたいにしてキスをした。
「どうしたんだ?」
怖い夢でも見たのか?と、触れるだけのキスの後近い距離で目線を合わせて、我愛羅が不思議そうに問う。その声が、柔らかく鼓膜を震わせるのを感じながら、ナルトはちいさく首を振った。抱き寄せる腕に力をこめる。もう、一人じゃないことを確かめるみたいに。
「今、ゆめでさ、昔のお前に会ったよ…。」
Fin
夜明け前